昭和~
開創
昭和51年1月、不慮の大火によって七堂伽藍が全焼全壊してしまいました。

その後、天上寺復興に心を寄せられる信徒並びに有志の方々の絶大なるご高援によって、今日までに金堂・金輪堂・鐘楼・摩耶夫人堂・一願地蔵堂・宗務所・密教学講伝所・天竺堂・漱水舎・天空之大舞台・西山門・権現社などが、天上寺創建の地・元摩耶で復興再建されました。


昭和54年 天竺堂落慶、インドより送られた摩耶夫人尊入仏開眼
昭和58年 漱水舎通水式 金輪堂入仏落慶
昭和59年 軍艦摩耶之碑建立
昭和60年 金堂落慶入仏開眼
昭和61年 金堂秘仏両界曼荼羅入仏開眼
平成元年  鐘楼堂落慶・華曼荼羅の鐘開眼 摩耶夫人尊開眼
平成14年 摩耶夫人堂落慶
平成17年 天空之大舞台竣工  一願地蔵堂入仏落慶
平成18年 延命大地蔵尊修復開眼
平成22年 西山門・権現社落慶
平成25年 摩耶天空之庭 6庭の内5庭が完成
【孝徳天皇勅願寺】大化2年(646年)

摩耶山天上寺は、大化二年、孝徳天皇の
勅願により、インドの高僧法道仙人によって
開創されました。


ご本尊は、お釈迦さまがみずから感成されたと
いわれる一寸八分の秘仏十一面観音です。

この尊像を法道仙人が中国をへてわが国に
伝来され、当寺のご本尊とされて、大阪一円
および当山の四周に開けた八洲の守護仏と
されました。

かくて、当山は大慈悲のみ山と崇められ、宗派を超えて、皇族・貴顕・諸国の歴代の大名・武将・
文人墨客をはじめ、広く善男善女の信仰を集めてまいりました。

ちなみに当寺は孝徳天皇の勅願寺にして、花山天皇(平安時代中期の天皇)の御願寺、
正親町天皇(戦国-安土桃山時代の天皇)の御願寺でもあります。

また江戸時代には、徳川第三代将軍家光公によって、摂津の国の鎮護寺(護国寺)に選定
されました。以来、江戸が遠隔の地であったので、徳川御三家の一つである紀州徳川家が
将軍家の代参の役をつとめるようになりました。

このため天上寺の紋は、天皇家より賜った「五七の桐」の御紋と、徳川将軍家より賜った
「三葉葵」の御紋を合わせた二種紋となっています。

中興
【中興・弘法大師「空海」】
(大同元年〈806年〉九州博多津に着岸ご帰朝)

弘法大師が唐に留学された際、当時中国で女人
守護のみ仏として盛んに崇拝されていた梁の武帝
自作の香木造りの仏母摩耶夫人像を日本に請来
され、当寺に奉安されました。この女尊はお釈迦さま
の生母で、まさに仏教の聖母です。

これ以来、当山の名を「仏母摩耶山」(略して摩耶山)、
寺の名を摩耶夫人の昇天された忉利天(とうりてん)
にちなみ、「忉利天上寺」(略して天上寺)と呼ぶよう
になりました。
縁 起
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【鐘楼完成】平成元年5月

摩耶山の鐘楼は仏典にちなんだ四季折々の33種類の花が浮かびだされた「華曼荼羅の鐘」と名称された梵鐘が納められています。